1952-08-28 第14回国会 衆議院 外務委員会 第1号
しかし部隊の移動の頻繁と野戰気分的感情に基くところの飲酒酩酊の結果、あるいはまた言語の不通に基く意思の疎通あるいは風俗習慣等の相違に基因する相互の誤解等の偶発的犯罪が大半を占めておるのでありまして、罪質はいずれも軽微なものであります。
しかし部隊の移動の頻繁と野戰気分的感情に基くところの飲酒酩酊の結果、あるいはまた言語の不通に基く意思の疎通あるいは風俗習慣等の相違に基因する相互の誤解等の偶発的犯罪が大半を占めておるのでありまして、罪質はいずれも軽微なものであります。
ネール政府は、朝鮮で人民を殺しておる、或いは細菌戰をやつておる、或いは水力発電を爆撃するというような無謀な行為に対して、野戰病院を派遣して、これは自分の人道主義であるという意思を表明しておられる。又政府は、朝鮮の都市における無制限爆撃を非難していないのであります。
(第三八九 〇号) 四六八 同(柄澤登志子君紹介)(第三八九四 号) 日程追加 一 簡易生命保險及び郵便年金積立金の郵政省 復活反対に関する請願(今泉貞雄君紹介) (第三九五五号) 二 国分郵便局を集配局に昇格の請願(中崎敏 君紹介)(第三九七九号) 三 大田区大森地内に無集配特定郵便局設置の 請願(尾関義一君紹介)(第四〇三〇号) 陳情書 一 野戰郵便貯金
熊本県緑ヶ丘簡易郵便局の昇格に関する請願(委員長報告) 第一三 茨城県大田村に特定郵便局設置の請願(委員長報告) 第一四 大阪市此花郵便局庁舎建設に関する請願(委員長報告) 第一五 高知県高石村に特定郵便局設置の請願(委員長報告) 第一六 岩手県一方井郵便局を集配局とするの請願(委員長報告) 第一七 簡易生命保險および郵便年金積立金運用再開に関する請願(百六十五件)(委員長報告) 第一八 野戰郵便貯金拂戻
○政府委員(松井一郎君) 戦争状態におけるいわゆる野戰郵便におきましては、大体占領国の郵便施設を利用してやつておるという例があるのでありますが、今度のような場合におきましては、戰時状態ではございませんので、我々のほうの施設を直接向うがお使いになるというようなことは予想しておりません。
○中川幸平君 曾つて戰時中、中国とか外国に軍隊が出動した際に、野戰郵便局をこしらえた。その際に、その国国の何か機関を利用した例があるのですか、ないですか、無論戰時中ですね、それをちよつとお尋ねしたい。
いろいろな記録を見ましても、野戰病院等で、夜間を利用しては遺骸を出しまして簡單に埋葬したというような記録がたくさんございます。大きな投下爆彈の彈痕がありますと、その中に死体を入れる、そうして土をかけまして、その上つに目印の石を置く。ところがほかの人が知らないで、その上に死体を入れて土をかけて石を置く。
横田委員 陸軍刑法の第一章、叛乱の罪、これは二十五條に「党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス 一 首魁ハ死刑ニ処ス 二 謀議二参與シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑」第二章は擅権の罪、第三十五條に「司令官外国ニ対シ故ナク戰闘ヲ開始シタルトキハ死刑ニ処ス」第三章辱職の罪、第四十條、「司令官其ノ盡スヘキ所ヲ盡サスシテ敵ニ降リ又ハ要塞ヲ敵ニ委シタルトキハ死刑ニ処ス」第四十一條「司令官野戰
なおまたこまかい事項としては、たとえば野戰郵便局で受入れました郵便貯金、こういつたものを臨軍の負担にするかしないかというような問題がございます。
ただ只今申上げましたように、このうちの大部分の大きなものは土地、立木竹でございますが、この中には何と申しますか、昔軍が練兵場とか、非常に大きな野戰の演習地というようなものに使つておつたので、どうも農耕に適しない所で、どうも現在のところでは余り利用価値がないという所が多いのでございます。
私たちが得た情報によりますと、この中には野戰築城という科目があります。
それと同時に、新聞あたりで伝えますことは、いわゆる第四軍といいますか、林彪将軍の第四野戰軍、並びに陳毅将軍の第三野戰軍、こういうものに相当日本人が従軍をしまして、そうして遠く揚子江、広東、海南島というような所にも移つたということも伝わつております。
私はこちらに帰りましてからも、第四野戰軍の総司令部には斎藤弥平太中将という方がおると言つておりますが、それも第四野戰軍の司令部関係なんかに聞いて知つておる。日本人の留用者なんかもおりまして、いろいろ聞いておりますが、そうした将官級の方にお会いしたことは一回もないのであります。
○松井参考人 私は第四野戰軍の関係におつたので、日本人の給料等についてちよつと説明を申し上げたいと思います。 軍に徴用されております者は、雇用留用というもので、まず最初は雇用関係の留用をするのでありまして、現在これらは粟の標準で一箇月二百斤から四百斤程度もらつておるようであります。
○玉置(信)委員 重ねて伺いますが、その分散されておるようであるという看護婦の諸君は、やはり中共軍の野戰病院に勤務しておるのでありましようか。
○亀澤証人 私は満州国の官吏でありまして、開戰と同時に召集を受け、満州第二千六百三十九部隊、すなわち野戰自動車兵器廠、これは牡丹江に司令部があります、そこに集結すべしとの命令を八月九日いただきました。しかしわれわれが臨江県に到達いたしましたときには、すでに牡丹江に敵が入つておりました。
それがために、いわゆる前職が憲兵、警察、特務機関関係でない、單なる野戰の中隊長であつたにもかかわらず、民主運動に参加しなかつたという理由のもとに遅れたわけであります。
昭和二十年二月高射砲学校を卒業しまして、見習士官として満洲鞍山にありました満洲第一二二四部隊、これは正式に言いますと野戰照空第一大隊、ここへ赴任しました。そこで小隊長をやつておりまして、昭和二十年の八月に入りましてから、部隊が奉天に集結を命ぜられました。そうして奉天に集結しまして、そこで停戰になりまして俘虜になりました。
○証人(亀澤富男君) 大正十四年二月十五日静岡県靜岡市太田町十二番地出生、爾後小学校、靜岡県立工業学校を卒業し、浜松高等工業学校中退、後、茨城県内原国民高等学校栄養部を出まして、満州移住協会、満州興務部の招聘によりまして、満州国勃利県公署開拓関係の衛生食品加工方面に従事、一九四五年開戰と共に召集を受けまして、満州第二六三九部隊野戰自動車兵器廠付に命ぜられましたが、本隊はおらず、東京城におきまして九月九日捕虜
○中村(純)委員 ちよつと紺野さんに伺いたいのでございますが、先ほどお話の中に、新聞記者が携帯用の無線機を持つて通信する時期が、そう遠くないだろうというようなお話でございましたが、戰争中におきまして、野戰地において新聞記者がそういうことをせられたことは、私どもよく存じておるのであります。
チチハルに下つたと同時に開戰が行われ、このとき我が連隊は三個大隊編成であり、この外に二兵隊、野戰重砲隊を加えて、三個大隊を三つに分けて一個大隊で一個師団を編成し、その編成状態は七月の在満召集兵でありまして、まだ兵隊としての訓練をされていないところの補充兵であります。
○証人(今井かね君) 私達野戰病院だつたものでございますから、私のところの野戰病院には一所、二所、三所とございまして、その全員の数を集めて約百五十名だと思います。
○証人(今井かね君) 私達おりました軍隊は、野戰病院が八、七、九とこうあるのでございます。その中の九師というのだけで、これだけの日本人残留部隊だと思います。
われわれは本年三月ラバウルからマヌス島へ移され、ここで軍関係の清掃をやつていたが、現在はここには元第二十六野戰貨物隊長の廣田少将(山口県)ら二百二十五名が入つている。刑了者は今年はこれが最後で、つぎは来年一、二月ごろになる。受刑者が一番希望しているものは、收容所を内地に移してもらうことと講和の早期締結であるが、これは減刑の恩典に浴したいからで、給養もよく皆元気でやつている」こう書いてある。
漢口から桂林の近くの零陵というところまで、野戰小隊長として戰爭して参りました。それから途中で軍政の手傳いをやらされまして、そのころに漢口に帰りました。漢口でもつて終戰になりましたが、なるべく早く日本に帰りたいというので、とりあえず上海まで出ましてようやく船をつかまえて帰りましたのが昭和二十一年の二月の終りでございました。